ぼくは絶望を切り裂くために言葉と文章という剣を持った
大それたブログタイトルですけれど、
「読んだ人の心の中に、ちょっとだけでもあたたかさを残したい」
ぼくはそう思いながら、ブログをはじめとしてSNSなどで文章を書いています。
はてさて、ブログに限らず物語やエピソード・文章自体、ぼくはなんのためにブログを書いているのだろうかってことを真剣に考えてみた結果です。
「文章を書くことに目的って必要ですか?」
たしかに個人的な日記をノートに書くだけなら、自分だけが読むものですから目的がなくてもいいのかも知れません。それでも自分の日常を記しておくとか、感情を落ち着けるために文章を書くとか、掘り下げて考えてみると目的は存在しています。
ブログはどうでしょう?
SNSはどうでしょうか?
どちらも個人的な日記とは、ちょっとニュアンスが違うように思います。というのはブログやSNSは「発信」という機能があるからです。
発信とは自分の考えていることを内側から外部に取り出し、世の中に放って品評してもらう行為です。
つまり「他者に受け手がいる」「読者がいる」とうことが、個人的な日記と大きく違う点です。
だからこそ「文章の書き方」や「ブログの書き方」みたいな教材があるわけです。それは、相手に伝える技術を学ぶために存在しています。
読者はブログに何を期待しているか
読者がいるということはですよ。
読者目線や読者が何を求めているかを意識しないといけないんじゃない?ってなるわけです。自分の好きなことだけ書くでは読者とのコミュニケーションは成立しないし、ブログもSNSも成立していないとうことになります。
ぼくはブログやSNSで収入とか認知とかを期待しています。読者を意識しない・置いてきぼりにしてしまっては、成果は上がらないと思っています。
読者はメリットを期待している
とくにブログの読者は、記事を読んで「読んでよかった・助かった」を期待しています。というのは、インターネットの情報が検索を中心とした認知のされ方をするからです。
検索ユーザーは「悩みや課題」を検索窓に入力します。悩みが解決されることが読者にとっては価値のある情報やコンテンツなのです。
ブログのテーマをキャッチコピーにした理由
このブログは「キャッチコピー」をテーマにしています。
もともとは、ぼく自身の勉強のために立ち上げたブログでした。
しかし働き方が変化してきている世の中で、自分で仕事をはじめる方やフリーランスで仕事をする方も増えてきたので、キャッチコピーを学びたい人はぼくの他にもたくさんいるのではないかと思って、学びの共有をしようと思うようになりました。
ぼくがキャッチコピーを学んできて悩んで実践したことが、読者の方にとってはメリットになると思っています。考え方や失敗例を知ることで、学ぶステップを省略できたり自分にはなかった視点を得られるからです。
情報を書けば読者が納得するわけではない
じゃあ、ブログは有益な情報をまとめていれば成功するのか。
そんなことはありません。
情報はすでに飽和状態にあって、もともとある情報を上塗りしたところで読者は関心を持ちません。また、ぼくがわざわざ書く必要なんてないですよね。
メリットというと、お得な情報やサービスの紹介などど考えてしまいがちですが、文章を読み終わったあとの「おもしろかった」や「スカッとした」などの読後感、つまり心や感情の変化も、メリットになると思っています。
ぼくがブログで書きたいこと
ぼくは、ブログを読んだ後に「ふふっ」くらいの微笑みがでるような、そんな文章を書きたいです。
やっぱり霧が晴れた清々しい朝のような爽快感やくだらなくて笑えてくるような、そんな感情になっていてほしいです。
読み始めは陰鬱としていてもいい。日常に疲れていてもいいです。
鳩にフンを落とされた日でも、
上司に怒られた日でも。
懐いていた猫が急にそっぽ向き出した日でも、
恋人と喧嘩した日でも、
けれど、読み始めていくうちにだんだんと視界が明るくなっていって、光に近づいていくような。絶望から希望に向かって歩いていくような、そんな文章を書いてみたいと思ったんです。
そういったストーリーなら、きっと読みたいと思ってくれるのではないか。ぼくなら情報よりもそうした物語を読みたい。そう思いました。
やっぱりぼくは、自分のために文章を書いているのかもしれません
だって、ぼくも絶望から希望を見出したいから。
生活が苦しい。
生きていることがつらい。
病気をしている。
人に傷つけられた。
夢が夢のままで実現しない。
やりたいことができない。
ものごとのやり方がわからない。
ひとつひとつの絶望があって。世の中には絶望が無数にあって。絶望的な状況に気づいていてもどうすることもできない。身動きが取れない状況ってのがあって。
つまり絶望を探していくことが、創造するきっかけになるとうことなのかもしれません。
そこでぼくは「文章という剣」を持ってみました。
これが人によっては、スポーツだったりプログラミングだったり料理だったり語学だったりするのかもしれません。
少し大袈裟かもしれませんが、
表現とか創作って、そんなことの上にそびえ立っているように思うのです。